Nemo's【こーかい日誌】改

Nemoこと漫画家 ねもと章子(別PN.抄堂たく) の後悔多き日々を公開する航海日誌です

(遅ればせながら)平成30年間ありがとうございました!

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うひゃー。凡そ4ヶ月ぶりにして、
なんと今年2度目のブログ更新です。

前回は新年のご挨拶で、今回は平成最後のご挨拶。
今日は2019年の三分の一が終わる日にして、平成最後の日…じゃない!もう令和になっちゃった!(^^;)

⋯⋯⋯( ̄▽ ̄;)。

ブログってもっとしょっちゅう更新するものですよね。
あわわわわ‼️💦
れ、令和からは、心を入れ替えた私をお見せ出来る予定ですので。(^^;)💦
(本当か?)

今後とも懲りずに呆れずに、どうぞ宜しくお願いします‼️m(_ _)m

デビューは昭和の終わりの頃でした

平成を振り返って最初に浮かんだのは、
長くやってる割に大した業績もありませんが(^◇^;)
おかげさまでこの30年間、漫画の執筆と漫画に関わるお仕事でずっと暮らして来れたこと、その幸運への感謝の気持ちでした!

   *    *    *

昭和59年(1984年)、白泉社の第9回アテナ大賞に応募して、新人賞を頂いたのは翌60年(1985年)の年始のこと。

その後、秋田書店のCandleという雑誌が『50pまでOK』(少女漫画で当時は珍しかったと思います)という漫画賞を始めたので
そこにもう一度(^^;)応募して、昭和62年(1987年)に同誌でデビューしました。

同年4月に創刊した『ミステリーボニータ』の創刊号にも32pの読み切りを掲載。

よく「デビュー作のタイトルは?」という質問がありますが、
実は私、ちょっと返事に困るのです。

最初に雑誌に掲載されたのはアテナ大賞の受賞作
『翼がくれた夢』で
1985年の『花とゆめ 5月増刊』。
原稿料も貰ってますが、これは「受賞作掲載でデビュー作ではない」と言われてまして。

次に前述の『第1回Candle漫画大賞』の受賞作
『1911年のセルフスターター』。
掲載されたのは1987年の5月でした。

この作品でデビューしたのだから、これがデビュー作だと一応思うのですが、
受賞が決まった後に「『ミステリーボニータ』が創刊するので32pのネームを切ってみて」と言って頂き、
掲載された『切り裂きジャックに花束を』という作品が1987年4月に書店に並んだその創刊号に先に掲載されちゃったんですよね。(^^;)💦

今でも「自分のデビュー作がはっきりしない」上に、「今月でデビュー何周年」って奴もはっきりしないんですよね。
(一応、1985年のアテナ大賞の方はカウントせずに、1987年がデビュー年と思ってます。問題は4月か5月か?(^^;))

初単行本は平成2年でした

デビュー3年目となる正月明け、40pの読み切りの仕事中に
昭和天皇が崩御されて『平成』が始まりました。

アシスタントさんを「おはよう!『平成』になったよ~」と、
先に起きていてテレビをつけて知った私が、
そう言いながら起こしたのを覚えています。

初の単行本が出たのは平成2年の12月でした。
(単行本巻末の発売日は1991年(平成3年)1月1日になってますが)
単行本はシリーズで計3冊出ましたが、
掲載途中で変わった編集長に「戦争ものは少女マンガでは受けないよ」と言われ
「あと前後編2回あげるからそれでキリをつけて」と打ち切りに。(^^;)

でも、この『レートル』シリーズという作品のことを現在でも覚えていてくださる方が結構居らして、
自分でも未だに代表作だと思っていたりします。
(つまりその後30年近く、代表作らしい作品が出せてなかったわけですが。(^^;))

このコミックスの修正を入れた電子化と、同人誌を着手したまま気がつけば10年近く経ってしまいました。
令和には、こちらもどんどん進めないとと、自分の残り時間を思うこの頃です。

平成10年頃からは『抄堂たく』名義でもお仕事を…

別ペンネームで初期のハーレクインや、
女性誌や主婦向けの雑誌のお仕事をさせて頂くようになりました。

ハーレクインは別として、女性誌、主婦向け雑誌は少女漫画時代とはうって変わって「生活」を描いた作品が主でした。
ある意味社会性のあるテーマが描けるので、実は少女漫画で『学園もの』が苦手だった(^^;)私には描きたいテーマが描きやすい活路でもありました。

(こちらに関しては、最近少しずつ電子化して頂いております)

平成11年にMacが私の相棒になりました

平成11年(1999年)の正月頃にPower MacG3を買いました。
世の中はすでに前年、初代のiMacの登場とWindows98に沸いていましたから
決して早い方ではないんですけどね。

Macとモニターと
WacomのまだUSBじゃない接続の初代の Intuosと、
スキャナーと、MOリーダーと、
当時人気のあった昇華印刷が出来るのが売りの、ALPSのプリンター、
そしてそれらをデイジーチェーンで繋ぐSCSIのコードを何本も買って、
それでも諸先輩方から見たらだいぶお安くなってきた頃ですが、
これにPhotoshopを買って、
軽でない新車が1台買える値段で…。

「買った以上はこれを漫画制作に役立てなきゃ!」と、
デジタルでトーンを貼れるフォトショップのアクションを考えたり
当時、色々試行錯誤をしていましたが。
その頃、来て下さっていたアシスタントさんや
お付き合いのあった編集さんから「J- Mac」というグループを教えて頂き…。

その会合に参加させて頂いたことで、デジタルの知識だけでなく、
その後の私の漫画人生に、とても大きな存在となる素晴らしい方々との出会いを
もたらしてくれることとなったのでした。

無いようで、それなりに30年は色々あったんだ…!

「J- Mac」の勉強会では、主に「コミックスタジオ」というソフトを
私は割と早くから使っていたもので、
その使い方を参加の皆さんにご紹介したりしておりましたが、
そんなことがきっかけの一つとなり、
大阪芸術大学の講師として呼ばれて現在まで、
それこそ平成の最後の10年間、こちらでいくつかの授業を持つこととなりました。

学生さんたちとの日々は、子供を持てなかった私には愛情を注ぐことの出来る、かけがえのない大切な時間です。

卒業した教え子の中には、既に私などよりも、
もうずっと売れている作家も何人もいます。

その事実は実に誇らしく嬉しくもあり、
と、同時に「自分も漫画家としてまだ終わりたくない、もっと頑張らないと!」という
焦りにも似た感情がフツフツと湧き上がってくる事もあります。

平成の30年間は、自分より若い人たちが後からデビューし、
どんどんすごい仕事をものされていくのを、
すぐ横で見ていた、なんてことも多く
「大して進歩もしていないのに、年だけとってしまったなぁ」と、
そんな風にも思ったりする時間でした。

…でも、それだけじゃなかった!

大阪に通い始めて3年目に東日本大震災がありました。
私の家の瓦は半分以上落ち、母の車は津波に流されるなど、かなりの損傷がありました。

ちょうど春休み時期で『シャーロック・ホームズ〜ライゲートの大地主』のネームを書き上げて送り、OKが出たのが正にあの、3月11日の午前11時過ぎでした。

4月には大学が始まり、電車が途中不通の区間もある中
大阪へ毎週行き来し、家の片付けと原稿で文字通り目の回る日々でしたが、
友人の安武わたるさんが、ご自分の「アシスタントさんの呼べる仕事場」を
寝床とお風呂と食事付きで提供してくれるという、涙の出る様な
題して『トモダチ作戦』を申し出て下さったんです!

お陰でそこにアシさんを呼び、安武さんにまでちょっぴり手伝って貰って無事、原稿を上げたという事がありました。

その作品が載っている単行本がこちらです。↓

コミックA・C・ドイル シャーロック・ホームズ正典名作傑作撰(秋田文庫70-1) (秋田文庫 70-1)

コミックA・C・ドイル シャーロック・ホームズ正典名作傑作撰(秋田文庫70-1) (秋田文庫 70-1)

そんな優しい友人、安武わたる先生の作品は、こちらです!↓
声なきものの唄?瀬戸内の女郎小屋? (1) (ストーリーな女たち)

声なきものの唄?瀬戸内の女郎小屋? (1) (ストーリーな女たち)

こんな風に思い出していくと、(前の方でも書いた通り)
大した業績も無いなりに(^^;)、漫画描きと、漫画に関わるお仕事で暮らして来れたこと、
そのこと自体が本当にありがたい幸運だったのだと思えます。

そして、それ以上に。
その過程で知り合えた、たくさんの素晴らしい友人たちとの交流、大切なご縁こそが、
この30年間の何よりの財産だろうと、平成最後の日の終わりに、改めて強く思い、感謝の気持ちでいっぱいになります!

あ!令和になっちゃった。(^^;)

と、これを…平成のうちにUPするつもりだったんですが。(^^;)
やっちまった。もう令和元年5月1日だ‼️

そんな、令話になっても相変わらずの私ですが、
平成の30年は随分のんびりと過ごしてしまったと些か反省しましたので。(^^;)
令和は私的には残り時間も短くなって来ているし、もうちょっとネジを巻いてしっかりいきたいと思います。

ご指導のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます!m(_ _)m

最後に。
『令和』が皆様にとりまして素晴らしい世となります様にと、心よりお祈り申し上げます!

もういっこ最後に。
「令和から、本気出すから!」